このブログの2冊目で、執行草舟が読み解いた松下幸之助についての本「悲願へ」について書いた。
その中では松下幸之助の先見の明といった「陽の部分」について書いた。
だが人間は必ず両極の側面を持っている。
陽の力が強い人間ほど、強大な陰を内包している。それを出すか出さないかは修養の問題となる。
しかし、大いなる熱量を以て何かを成し遂げる人には、その熱源となる何かしらの強い思いがあるのは確かである。
松下幸之助の場合は、父親の家業が失敗し、故郷を追われるところが根源にある。
幼くして家長となり、お家再興を目指す幸之助に降りかかる、母親の再婚という痛恨の出来事。
その二点が、生涯を通して松下を動かしたのでは無かろうか。
世間で一般的に思われるような、単なる聖人のような経営者ではない、その内面は混沌としている。
その経営スタイルは、ちゃんと強欲である。ただその欲のベクトルを全て自分の方だけにむけなかったところが凡人との違いである。
欲というニュートラルなエネルギーをバランス良く分配すると、経営として上手くいくようである。
全て自分の方にかき集めると、結果的に破滅する。アラジンとジャファーの違いである。
欲を自分の方にだけ向けない、人に与える、一部負けてやる。
勇気が無いと出来ない事ではある。松下幸之助にはその勇気があった。
自分の欲の先に人々の幸福を繋げた。故に時代が味方した。
晩年は家族への私欲が勝り判断が怪しくなるのだが、間一髪老醜を晒さず逃げ切った感はある。
人間は完全ではない、だから本を読んで先人に学ぶ。
松下幸之助も小学校中退ではあるが、その判断の節々に耳学問による古典の教えがよぎる。
ただ全体的には、知性より野生の人、という感じがある。
常識を一歩抜け出してみる、「野生」の判断力こそ今改めて松下幸之助に学ぶところでは無かろうか。
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