7冊目 生きた佛教

この本を令和の時代まで残しておいてくれた出版社に、そして発掘してくれた読書のすすめさんに感謝したい

仏教か・・・と思われる方も多いはず。


とかく日本で宗教は良い目で見られない。最近でこそ受け入れられつつもあるが、何を隠そう少し前の自分も宗教をきな臭い目で見ていたのは事実である。


宗教なんて、心の弱い奴が求める物だ、なんて高校時代は生意気にも考えていた。


年を重ねる毎に、といってもまだたかだか26歳ではあるが、宗教的なもの、というか生命としての真理を求める心が生まれてきて、それに応えてくれたのは自分の中では仏教をはじめとする東洋哲学だった。


科学の申し子である医療者が宗教色なんて不謹慎では無いのか、という問があるかも知れない。


誤解を恐れずに言えば、宗教色を持たずに患者に接する方が不謹慎である。


加藤師匠は脳梗塞で死にかけた際に、とにかく救いを求めた。釈迦でもキリストでも神様でもいい、とにかく助けてくれと祈る気持ちが、生命の危機の際には立ち現れる。


それが生命を持つ人間の本質である。死にたくない、死ぬのが怖いから人は宗教を生み出したのである。





原始的生命観に立ち返ると、人も動物の一種であるから、生きるために食べ、食べられなくなったら死ぬのである。


食べ物をほぼ当たり前に享受できる現代日本では忘れがちなことではあるが、基本的に人も自然の一部の存在であるから、いつ死んでもおかしくは無い、明日の保証なんて無い。その確率が極限まで下がった時代に生きているから、死ぬことが遠くなっている。


死ぬことが遠のくと、物欲が生まれる、消費する余裕が生まれる。その欲望が資本主義社会を維持してきた。


不安が強まると消費が遠のく、生命、生活を維持するために必要な物以外は買わなくなる。


疑似の不死を錯覚させることで大量消費社会は保たれていた。


核家族化で少し遠のいていた死が、自分達の世代に刻々と迫りつつあることに気づいてしまった。


また、昔ながらの大家族生活で継承されるはずだった「死の瞬間」が家庭から病院に移行し、親族の死に目に会う機会、死に至る過程を目にすることが少なくなった。


現代人はおそらく、昔の日本人より死ぬ準備が出来ていない。


うちの曾祖母は、当時小学生の僕に、自分はそろそろ死ぬのだと言った。

当時でも80過ぎである。今ならそんなものかなと思うが、当時の自分は嫌だと言って泣いた覚えがある。


ちゃんと自分の準備が出来ている人だった。眠るように死んでいった。


そういうもんだ、という感覚が自分の中に遺された。なによりの形見分けである。



本の話に戻る。


前半は釈迦の生涯をわかりやすくまとめてある。釈迦もその若い頃は、老いるのも病むのも死ぬのも嫌で救いを求めてさまよった一人の青年である。


「辛いことは嫌だ、逃げたい、救いはないか」


今とそう変わらない感覚に思える。


修行を通して悟る、この間色々あるのだが詳しくは読んでいただきたい。


後半は仏教の本質的な話である。


仏教のわかりにくさは、宗派が色々あり、本質が見えにくいことにある。


この本の優れているのは、仏教自体の本質を分かりやすく解いてくれている点である。


仏教の本質は三法印だと


諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が分かれば仏教は分かると。


この本の解説を通して、自分は命の定義が広くなった。


その上で、いつ死んでもいいような生き方をしたいと思った。


そういう本である、何度でも読み返したいと思う。




100冊の予約は突破しているようなので、再版は決定している模様

興味のある方は下のページまで。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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