世界から「べき」が消えたなら

ここ数週間で、大きな考え方の変遷があり、どう言葉にして良いか悩んでいたので、悩んだままキーを打つことにする。


人間は脳内で全ての情報を瞬時にジャッジ(審判/断罪)している。感情をジャッジし、事実をジャッジし、何一つ素材そのままではいただけない。


寿司のようだ。人は高速寿司職人を脳内に雇ってしまっている。無自覚にも。


感情と断罪の寿司、事実と糾弾の寿司、これらの寿司は不味い。特に精神に良くない。


このネタとシャリを剥がすことが出来たなら、少し救われるのではないだろうか。


例を挙げてみる


・なんだかやる気が出ない。←努力をしないのは良くないことだ。


・部屋が片付かない。←時間があるのに時間を無駄にしている。


感情は浮いてくるもので自然なこと、だけどそれを価値づけると辛くなることがある。


事実を認めながらも、更に人は世間体とか常識とかを基準に、自分に鞭打つようなことをする。


元気なときの自分の言葉が、調子の悪いときの自分を殴りに来ることがある。特大の自己嫌悪ブーメランである。


こうである「べき」というのは、憧れの思想とは違う気がする。憧れには追えども追えども到達できないものを求めて自分を高め続ける尊さがある。そこには自分がどう見えるかという視点は無い。


「べき」には人の視線を自覚した上での言い訳めいた要素を感じる。世間体や常識で形成された自分の価値観で自分を攻撃することが、世の中に対しての弁明のようになってしまう。


また「べき」は人を攻撃する格好の材料となる。


自転車は左側通行をする「べき」(厳密にはルールなのだがまだまだ認知度が低い)


医療者は感染源である自覚をする「べき」


みんなが気をつけているのだから自粛する「べき」



暴走した「べき」は自己嫌悪、同調圧力の根源になっているのではないだろうか。



しかしながら良い面もある。日本の感染が拡大しなかったファクターXの1つは紛れもなくこの「べき」が強い国民性だろう。


「べき」が強いから高い職業倫理も保たれる。警察官や鉄道職員など、社会インフラの安定性は職業に求めるイメージの強さが内部の人間、外部の人間共に高いからだろう。


米国の暴走は、アメリカは世界の警察である「べき」を辞めたことから始まったのかも。


「べき」にはもの凄い力があり、その反作用も相当なものである。


だが、脳内の寿司は「べき」だけにはとどまらない。そのお品書きの全貌はまだ自分にも見えていない。


気付いてしまったら引き返せない。探究の日々が、始まっている。


松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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