映画評論のようなもの

ジブリが昔の映画を再度映画館で上映する、という企画を6/26から開始した。

風の谷のナウシカ、もののけ姫、千と千尋の神隠し、ゲド戦記の四本である。

世相的にも完全に狙っているな、と嬉しく感じる。


早速昨日、ゲド戦記を観てきた。平日のためか、評価が低いせいなのか、シネマコンプレックスの中でも、一番小さい部屋で、観客はたった3人だった。贅沢な話である。

ゲド戦記の最初の放映は2006年、自分が中学生のころだ。世の中的に駄作と酷評されたのをなんとなく覚えている。


当時は観に行かなかったので今回初めてだったのだが、観て圧倒された。

確かにこれはジブリっぽくない、エンタメ的な爽快感は少ない。ストーリー的なわかりやすさも、希薄に感じられただろう。



けれど、今までの宮崎駿作品とは少し異なり、より深いところを訴えているように感じた。



この作品のテーマは社会がどうの、環境がどうの、ではなかった。完全にこれを観ている「わたし」の問題なのである。


先日大阪の鍼灸の先生から陰陽五行を学ぶ機会を得た。

人間は陰陽、すべて持っている。人の嫌な所も、凄いところも、全部自分の中にある。

あるとかない好きとか嫌とか感じるのは、自分にもあるってことを認められないから。

みたいなことを教わった。(ニュアンス通じるだろうか?)


これがゲド戦記にどうつながるのかというと、ゲド戦記は西洋的な舞台設定で、今までのジブリ的な構造、装置を流用しているが、東洋的英知の「陰陽が和合する世界」を表現しているように思う。


陰陽和合する、というのは光あるところに影があり、影あるところに光あることを認めることになる。


冒頭で描かれる龍の共食い、疫病の蔓延、飢饉など世紀末的要素は世界の不均衡の表象のメタファーだろうか。アレンの行動もおそらくその崩れたバランスが反映されている。


市場での魔女とハイタカの会話で、魔女の「目に見えない魔法なんかより物のほうが形があるのだから信じられる」という感じのセリフは、物質至上主義社会への皮肉だろう。


アレンも最初不安が強く、恐怖に苛まれている不安症の人格として描かれる。


これは見る人から見れば、異常な精神状態の感情移入しにくい主人公だろう。


この物語は、人はいいところもあれば、悪いところも両方持っている。片面だけいいとこどりすることはできない。という当たり前な事を人が受け入れていく様をアレンの成長として描く物語なのである。


これだけ書くと実に当たり前の事であるが、なぜそれが受け入れられなかったのか。

それは僕もだけれど、分かっていてもできていない、からなのだと思う。


有名人への誹謗中傷を叩く。人気芸人の不倫を叩く。羨み、やっかみもある。けれど本質は「そんなこと自分はしない」という欺瞞である。


程度は様々だけれど、誰にでもある負の要素を犯罪者や悪人として仕立て上げ、絶対的他者として切り離す行為で、人は自分の中の闇を無自覚に増幅させていく。


そりゃわからないだろう。世間的には評価されないわけである。

だってテレビのワイドショーで、新聞で、放映から14年経った今でも散々同じことを繰り返しているのだから。

それを世間が認めてしまえば「違い」を売りにする資本主義が崩壊してしまう。

だから叩いたんじゃないかな、そんな気がしてしまった。

分かりにくいし万人受けはしないだろう、けれど今の自分にはとっても響く映画だった。



昔『竜馬がゆく』を読みつつ考えた自分なりの考え方に、無敵の思想というものがある。


中二病的な、「誰にも負けない」、とか、「最強」、とか、そういう意味ではない。

個々の人間を、集合的無意識という地下茎で繋がったジャガイモの一個一個とみなすと、自分が目にしている他人は「自分が見ている世界」の景色となり、自分と無関係ではなくなる。

あまり真摯ではないように見える政治家も、隙あらばミサイルを撃ち込んでくる隣国の将軍も、残念ながら自分と根底の部分で繋がってしまっている。それを認識しているうちは。


だからまずは一旦受け入れ、落とし込む。


その上で、コントロール不可能な他人の行動に対し、自分ができる、自分のコントロール内の行動に変換していく。映画のキャラクターを自分の思い通りに行動させることはできないのだから、観客が自分事でリアクションを起こしていくしかない。


現象がどれだけ腹立たしくても、許せなくても、世界は自分の手の届く範囲にしかない。


見えてるものは全部自分の脳が作り出した幻想なのだから、対応も全て自己の中にある。


敵を生み出すのは人間視点、自分も相手も上から眺めて考えるのが仏の視点。


というのが実に東洋的でいいな、と思うここ数週間であった。

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