本書は著者の人生を振り返りつつ、「こころ」の生まれる前の時代へとさかのぼる。
文字の発明から数百年後、人類が心の存在を発見し、現在の隆盛、心の副作用の暴走の現在まで至る。
その鍵となるのが、「あわい」という内なる心と外なる世界の間を繋ぐ「身体」という存在である。
本書は身体感覚を通して心の副作用を解毒しようとするアプローチであると共に、文字、心に変わる人類の次の時代を創る発明を示唆する一冊である。
心の単語の歴史を遡れば、新約聖書の中にある古代ギリシャ語の「スプランクニゾマイ」という単語は「憐れみ」と訳されるが、その原義は「内臓が動く」といったものであった。更にはヘブライ語で憐れみを表す言葉「ラーハム」やその元となったであろうアッカド語では「リム」これらの原義は子宮であったと著者は語る。
古代人は相手の感情と一体化するこの感覚を子宮で表現したのだという。
ちなみに、スプランクニゾマイを英訳すると「Compassion;相手の感情と同期する」といった言葉になる。
この心の座が、時代と共に心臓の位置で感じるようになり、頭で感じるようになり、その副作用も大きくなっていったと本書では推測する。
臍下丹田を意識せよ、呼吸を整えよ、とする座禅やヨガなどの精神統一の本来の意図は、脳まで上がってきた心を内臓感覚の位置まで下ろすことにあるのかも知れない。
所謂チャクラの位置というのもそれぞれの時代における心の座と何か関係があるのでは、など想像が膨らむが、専門外のためこれ以上の言及は出来ない。
ただ、本書に従い身体感覚「あわいの力」を取り戻すアプローチとして、温泉につかる、呼吸を整える、雨の中を一日7〜8時間、一週間歩く、など様々な試みが示されている。
本日は偶々雨だったので、時間的には全く及ばないと思いながらも、体当たりで雨の中を30分ほど散歩してみた。確かに良い気持ちである。
子供の頃なら叱られることではあるが、案外そうした無批判に押しつけられた常識の裏側にこそ、とっておきの気づきがあるものである。
だいたい周囲の大人に刷り込まれた常識の逆を行けば、面白い世界に到達する。
雨に濡れて冷え切った身体で浴びるシャワーは格別であった。
外は雨のお陰で人通りもない。ソーシャルディスタンスは存分に守られている。
雨の中でも桜の葉は香るということにも気付いたし、カワセミが飛ぶのも初めて見ることが出来た。
古代の頃から連綿と受け継がれてきた人間の遺伝子の中には、まだまだ思いもよらない感覚の引き出しが眠っているのかも知れない。
常識を一旦捨てて、再構築する。自覚してもいなかったこだわりに気付く。
心の断捨離は手を付けてみれば果てしがない。
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