読書とは窓

同じような本を読むコミュニティに属していると、人がある本について語る言葉を聞いて、「そんなこと書いてあったっけな」と思うことがよく、ある。


ちゃんと読めていないのかも知れないと思ったが、多分そういうことでは無いんだと思う。


人は本を通して現れる自分自身を読んでいる。


作家の皆さんには申し訳ない話ではあるが、人は読みたいようにしか読めない。


どこにラインを引くのかも、どこを引用するのかも、読んだ個人の枠の中を出ない。


だから読書会というのは面白く、他人がその人を通して読んだその本は、その人というフィルターを通して輝く。


人が綴る文章もそうである。その人なりの味付けを施されて生み出される文章は、間違いなく唯一無二のものだ。


自分もこんな風に文章にして世に問う、ということを始めてから「そういうことを言いたかったのです。」とありがたくも言っていただける機会が何度かあった。


嬉しい話だ。でも、本当の意味で厳密に言うと、自分の書いた気持ちと、共感してくれた人の気持ちも、きっと違う光を放っているんだろう。


だから自分は、この文章を読んでくれたあなたの文章が読みたい。と思う。


人の気持ちを表情から全て読み取るほど鋭くはないからこそ、書籍という媒体に救われてきた。


五感+思考で、なんとか無い物を補ってきた。


文章が全てではない、けれど文章によって補完される関係性もまたいいものだ。


松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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