よく、自分のことを「すごい読書家で…」と紹介していただくことがある。
とてもありがたいことである。ただ、実際の自分は、それほど本を読んでいるだろうか、と怪しくなる。
そもそも、どの位本を読めば自分はそう紹介されることに慣れるだろうか。
1日1冊か。現状ではとうてい無理である。
1日数冊読むと言われる読書のすすめの清水店長や、同店員の小川さんなどには遠く及ばない。
冊数は問題ではない、というのも理解してはいるが。それにしたって自分の現状はお粗末だ。
そんな自分に読書家の称号は過分ではないのか。
自分が思う「名著」を余り通って来ていないこともその自信の無さを形成する。
夏目漱石は『坊ちゃん』しか読んだことがない。森鴎外は山椒大夫くらいだ。三島由紀夫の豊穣の海は2巻まで読んで止まった。川端康成、谷崎潤一郎は言わずもがなである。
自分の文学に対する素養は大変貧弱だ。
哲学はどうかというと、ニーチェも、ハイデガーも、カントも読んだことがない。せいぜい有名どころで言うと、デカルトの『方法序説』くらいだ。(これはとても薄いので読みやすい。)
現代の良い本を読むのは大切であるが、自分自身が古典とされる名著の系譜をちゃんと辿れていないわだかまりが、自分の中に溜まっており、素直に読書家を受け入れられない。
「にわか」なのではないか、という面倒くさいコンプレックスである。いや、にわかである。
なぜ中高生の時代に文学をゴリゴリ読んでおかなかったのだろうと忸怩たる思いに駆られる。
正直、最近まで西洋哲学などは、「人が一度考えたことなどわざわざなぞり直す必要はない」と思って遠ざけていた。
その辺を今になって恥じ、人がどう思おうと自分に対して確固たる「まがい物感」が生じている。
焦ってどうにかなる問題ではない。一層一層、塗り直して新たな自分を固めていくしかない。
何故そんなに焦るのか?
身に合わぬ袈裟に戸惑いを感じているのは、人に失望されたくないからだろう。
袈裟に身を合わせる芸当なんて出来ようはずもないが、認めて頂いただけある人間だと示したい。
そんなまがい物の自分であるが、名著を存外に読んでいない割には、話が通じてしまう、本を読んでいると思ってもらえるのは耳学問と微妙に器用な所為でもあるだろう。
後は、読んだことはなくても読んだ人から話を聞くと、似たようなことは考えてきている、というのはあるかも知れない。
本というのは累積になると思っていて、原典を読まなくても、本物を多数読んできた作家の書く1冊には、知らずそのエッセンスが入っていることがある。だから知らなくても本質に触れている事がある。
それをわざわざ読むのは、何のためだろうか。
人からよく見られたいからか。権威を示したいからか。人とは違う自分を演出したいからか。
自分でもよく分かっていない。
「本物」になりたいとは思う。それは評価されるかどうかの次元を超えて、自分で自分を研ぎ上げていくのを楽しむ境地である。
そこに導いてくれるのは本だけじゃないかも知れない。映画、座禅、ヨガ、茶道、身の回り全ての中に答えはあって、掬い取れるのも、タイミングと縁である。
わざわざ書かなくても良いような頭の中を一度開けておこうと思って、この文章を書いた。
一度自分に対して抱かれるイメージを、自分に対して立ち上げられる「分人」(平野啓一郎が提唱する概念)を全否定しておかないと、自分がこれから書こうとしている文章に差し障りが出ると思ったからである。
等身大の自分で、等身大の読書の話を、していきたい。
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