言葉にするのもちょっと憚られることではあるが、自分は中学三年の頃に一度、「悟りを開いた」、と思ったことがある。
これはそんな、自分の原点となる体験のおはなし。
北海道の片田舎に生まれ育ち、特に何不自由ない家で生まれ育った。坊ちゃん然とした自分の育ちがだんだん周囲と違うことに気がつき、罪悪感のようなものを感じていたりもした。
中学に上がると、高校受験に向け、明確な意図を持った勉強が開始された。父が部屋につきっきりで勉強の監督、父が科目ごとに三種類の問題集をコピーし、ひたすら解く生活。おかげで成績には不自由しなかった。思春期の苛立ちと閉塞感もあったが、結果は出ていたので従っていた。
どう勉強するかについて、自分の意思はあまり無かった。引かれたレールをなぞるだけで十分な結果を得ていた。
同時期に自分はあるオンラインゲームの虜になる。
メイプルストーリーという、一世を風靡したMMORPGで、キャラクターを育成するとともに、ゲーム内チャットで日本全国の色々な人と会話ができる。
現実から逃げるように仮想世界の住人になった。同級生の間で流行っていて始めたのだが、そのうち学校のやりとりを家に帰ってからも繰り返すことにうんざりして、ゲーム内では独特のコミュニティを形成するようになった。
いろんな人がいた。鳶職のお兄さん、同人声優のお姉さん、法学部の大学生など、多様な大人と同じ目線で交流できるコミュニティは、当時の自分にはとても魅力的だった。
運動神経はそれなり、部活で輝く事はない。勉強は大体できてしまえば究めようともせず飽きる性格である。キャラクターのレベルを上げる、自分だけの社会で周りの人間とは異なる人と関わることが息抜き的な娯楽になっていた。
父の監督の目はゲームにも向いた。能面のような顔でゲームに没頭する自分を何度も叱った。
そりゃそうだ、年頃の息子がこんな顔で何時間もゲームしているのでは将来が心配になろうというものだろう。
しかし自分はこう考えていた。
現状の努力量を維持していれば、市内の進学校など、何の問題もなく入れる。それ以上の努力なんて全くの無駄じゃないか。だったらその時間をゲームに充てたっていいじゃないか。
当時の自分には勝手にライバル視していた、会ったこともない同年代のプレイヤーがいた。
ハンドルネームは oI葉月Io
当時は名前の重複を避けるために名前の前後に適当なアルファベットをつける文化があった。
本人は年下の女子、でもキャラクターのレベルは自分の遥か上、ゲーム内での言動も立派に大人で、その業界での有名ブロガーに絶賛されていた。
テストで同級生に負けるとか、部活で試合に負けるより何倍も対抗意識が湧いた。
しかし基本的にゲーム内での強さはかけた時間に比例する。部活をして、勉強をして、という自分では敵いっこなかった。
ブログも書いてみた。ゲームについての話から、生意気にもいろんな社会問題を自分なりに論ずる、かなり背伸びした内容の記事もあったと思う。
中3になり、祖父が癌になり、医者になろうと思った。ありきたりの理由である。
ある日、学校で不良グループに大した理由ではないことでからまれることがあった。理不尽に思いながらも、学校からの帰り道で延々と考えた。
なぜ、あんな人間が存在するのか
なぜ、からまれてしまったのか。自分に非はなかったか。
こういう結論に達した。手を出しやすいように見えた自分が悪いのだと。
彼らの手が届かないくらいの人間になれ、そういうメッセージなのではないかと。
他人のことはどれだけ考えても、変えようがない。痛いほど知っている。コントロール外なのだ。
一方、自分の事に関しては変幻自在である。自由に変えていける。
この考えに至った途端、視界がぐわっと広がった。
圧倒的自分論、突き抜けすぎて冷酷ですらある。
道中、考えがどんどん展開していった。
ゲームと自分のことを考えた。
ゲーム内のキャラクターはモンスターを倒すことで経験値を稼ぎ、成長していく。
一方、用意されたクエストという課題を順番に解決していくことでも、キャラクターは育つ。
人間も一緒だな、と思った。
人生上の問題、という試練を克服していくことで、人は成長する。
これが中学生だった自分が「悟った」と感じたことの内容である。
この結論に達してから、あんなにハマっていたゲームから引退することを決めた。
ゲーム内のキャラクターを育てるのも、自分の人生を生きるのも、おんなじような事をやっている。
ゲーム内でいくら成長しても、現実の自分には還元されない。だったら生きる事を選ぼう。そんな結論だったように思う。
勉強の世界に戻って、母がある高校の説明会に行ってきた。
函館にある寮制の高校
家を離れて三年間の高校生活。これだ、と思った。
市内の進学校より高いレベル、様々なストレスで荒れ狂う母と、勉強のたびに監視を続ける父から解放されるかもしれない。
勉強の目標がやっと、できた。
しかも推薦入試であれば、公文式でも散々やってきた英数国の3科目。国語の課題は小論文、ブログを書きながら色々な事を論じていたのが活きた。
母は怒り狂った。自分が持ってきた話なのに、矛盾しているが、そういうものなのである。
高校から私立に行くという贅沢、家を離れることの負担を盾に叱られた。
ここで味方をしてくれたのが父である。受かったら必ず行かせてやるから、今は勉強に集中しろ、そう言ってくれた。
祖父の癌は進行して、入院するようになった。
タイムリミットは、徐々に近づいていた。
見舞いに行くたびに、「信孝、受かったか?」と繰り返す祖父。
乾いた口臭のような、鬱滞した病室独特の匂いが、苦手だった。死の匂いのように感じた。
あんなに元気だったのに、弱っていく祖父を見るのが怖かった。
試験は2008年1月19日
その四日前の1月15日に、祖父は亡くなった。わが家族ながらすごいタイミングである。お通夜と、葬式をあげてギリギリ間に合う日程。勉強で詰めた知識を程よく整理するには絶妙の時間だった。
式場から帰って家に筆記用具と受験票を取りに戻り、そのまま試験会場に向かった。
その日受けた試験は、人生で一番楽しいものだった。一問一問、出題者との対話を楽しんだ。
のちの大学受験も、国家試験も、あれほど出題者とちゃんと対話できた時間はなかった。
憧れの高校の先生が出題する問題と、ベストな状態の自分で向き合う、フロー体験とはあんな時間のことを言うのかもしれない。
迎えに来た父にどうだった?と聞かれて、自分は
「楽しかった」と答えた。
試験の2日後の夜、カタコトの日本語を話す外国人からかかってきた電話で、僕は合格を告げられた。
その高校の校長先生だった。
あと少し早ければ、祖父にも合格を伝えられたのだけど、あの試験の時間、きっと祖父は試験会場について来ていたんじゃないかと思う。
自分は無事、函館行きを決めた。
高校2年の夏休み、何気なく開いたoI葉月Ioのブログで、彼女が2009年1月に亡くなっていた事を知った。
白血病、だったそうだ。
ネット上の話、本当かどうかはわからない。
しかし自分はこの出来事から、人生の意味を考えるようになる。
社会に出る前に亡くなっていく命は無意味なんだろうか。
仕事に就く前にこの世を去ってしまう人の生まれた価値って、何か。
仕事に就いて自分が生まれた土地に恩返しをする、というごくシンプルな世界観で生きてきた自分の心に、えらくデジタルな形で伝えられた彼女の死は、深い問いを投げかけた。
病気で外に出られないとき、体を動かせないとき、ネットを通してでも人と繋がれるという事は、ある種の救いになるのかもしれない。
限られた箱の中でも、自己実現できるならそれで良いのかもしれない。
生きている自分は、そういう人たちの気持ちも勝手に背負って、1日1日の生を堪能するしかない。
救う、事より日常の幸福を最大化する事を自分が考えるようになった事のルーツは、ここにあるかもしれない。
いつ死んでもいいように生きよう、その方がきっと自然だから。
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