ありがたいことに、「松浦くんは頭がいいから」
と言っていただけることが、時折ある。
大学の同期達など、自分より数倍頭の良い人たちに囲まれてきた僕自身は、決して頭が良いとは思えない。
けれど、思うのも感じるのも個人の自由なので、だらしなく鼻の下を伸ばしながら、ありがたくその言葉を受け取る。
人から信じてもらうことで発揮できるパフォーマンスも存在するのだ。
頭が良いってなんだろうかという問いは、教育界をはじめとして古今東西様々な議論がなされてきたと思うし、定義するにもその実態には多彩な要素を含んでいるのでとても難しい。
でも個々人がなんとなく、勉強ができてテストがスイスイ解ける頭の良さ、とか、スポーツ選手の瞬時に的確な判断をする賢さ、とかそれぞれの現象を間にした時に「頭がいい」と感じている。
そしてそれは、「行列を処理するのが早い店員さんの列を見つける」だとか、「書類に確認のサインをスムーズに貰える上司の回り順がわかる」とか、「意中の相手を落とすとっておきのアプローチを編み出せる」とかも含むと思うのだ。実は各々が、光る何かを持っている。
「頭がいい」という言葉はあなたが人の中に、自分にとっては輝いて見える何かを見つけた時のサインである。そして自分が反応した相手の光る要素は、大体自分の中にもあったりするものなのだ。忘れてしまっているだけで。
人の悪徳を指摘しても少しばかり気が紛れるだけで自分の足しにはならない。でも人の美徳を見つけたらそれは学び得る強みになるかもしれない。
だから、そんなことが見えているあなたこそ、「頭がいい」人だと思う。
別の時に、「ブログを読んで、私の理解じゃ浅いと思うけど、わかるよ」と言っていただいたこともある。
かっこつけて小難しい言い回しを入れてしまったりすることがあるから、そう感じられるのかもしれない。
けれど、この人のこの「わかる」は核心をちゃんと突いていると思う。
僕が言葉をどれだけ尽くしても、人に伝わる時の「わかる」は感覚によって生じるものなのだ。
だからこそ、僕の社会的な武装で、読んでくれた人が自分の感覚を疑ってしまうのが、悔しい。
語彙が違っても、内容が指し示す真実は変わらないよって、伝えたかったのだ。
高校3年生の時、数学の先生が
「いいかお前ら、世の中で最も出来がいい奴から先に社会に出ていくんだぞ。中学や高校を出て世の中に出る人より、大学に行こうとしているお前らは劣るから学ぶんだってことを忘れちゃいかんぞ。」
ということを言っていた。
僕らをけなすために言ったんじゃないってことは、その言葉の優しさから十分すぎるほど伝わってきた。淡い光が差し込む教室で彼が放ったその一言は、教わったどんな公式や定理よりも確かに僕の心の中に残り、とっておきの宝物になっている。
彼の言葉は、学歴なんてものを誇りにするなという確かな高貴さがあり、間違ってもそんなことで人を傷つけてくれるなという愛に溢れていた。
彼は僕らに数学を教えたが、僕は彼から数学以外の色々を学んだ。今や座右の書の一冊になっている、『名人伝』を教えてくれたのも彼だった。
どんな大学を出たか、学位を持っているか
よりも、あなたはどんな人で、今どんな問いを抱いて生きているのか、の方がよっぽど人間がわかる。
現にもう、肩書きで仕事をする時代から、能力と魅力で仕事をする時代に変わりつつある。
肩書き一つで話が通っていた時代とは異なるスリルとシビアさの足音が、後ろから聞こえてくる。
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