謎の閉塞感とタスクの洪水

俯瞰してみれば別に大したことは無いはずなのに、足が止まってしまうことがある。


最近がそうだ。一見順調で着実に自分は変化してきたと思っているが、その変化の揺り戻しが来ている。


肉食を辞めたと思ったら戻ったり、酒離れをしたはずが気づいたら飲んでいたり


人の変化はパキッとしたデジタルなものではなく、波のグラデーションのように行きつ戻りつするものだとは思っているが、自分でも何だかなあと思ってしまう。


ともやもやしていたら、高校時代の英語リスニングの授業を思い出した。


先生は立派な髭をたくわえたダンディな声の副校長。どんどん生徒に当てるスタイルと褒め上手なので、下手の横好きでも英語が好きになった。


その先生が授業の中で言うには、英語リスニングの音源で1つ聞き取れない単語があるとそれを気にしてしまい全体を聞き逃す現象があると。彼はそれを「英語の洪水にのまれる」と表現した。


自分の近況も似たようなものに違いない。一つ一つの大したことのないタスクが足に絡まり、全体として身動きが取れないような錯覚をしている。タスクの洪水にのまれているだけなのだ。


昔合氣道を習っていたとき、同じように日々のタスクに追われ、悩んでいる時にも、師範の多人数掛けの中にヒントがないか目を皿にして眺めていたことがある。


結論は同じだった。多人数を相手にしていても投げる一瞬は相手一人である。


今自分が最もなんとかしたいタスクは自分の根源に関わるもの。

さみしさ、劣等感、虚栄心、そうしたものとそれぞれ四つに組み合って消化していくプロセスである。28年分の垢を流す作業が一朝一夕で出来ては堪らないと開き直っても居る。


とりあえず、手を付けるしかないのだ。小さな事を一つ一つ積み重ねていくことでしか、遠くに行くことは出来ないのだから。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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