我のモンスターと牙を剥く言葉

Facebookでの何気ないコメントや、Zoomの会に参加したときの自分の発言に、どうしようもない程の我の強さが流れ込んでいることをふと自覚して、恐ろしくなる。


おやおや、この一年でそんな自分を手放したのではなかったかね?と小一時間問い詰めたくなる程度には、しぶとめの我はまだまだ残っているようだ。


こうして誰が求めたでもない文章を書いて垂れ流すのも我の発露の一部ではあると思うけれど、これが我を抑える方向に向かうのか、むしろ増長させてしまうのかも今はまだわかっていない。


でも、思考の熟さないまま気持ちを半煮えの言葉にしてしまうことで、自分を表現したつもりの言葉で誰かを嫌な思いにさせていたり、傷つけたりしている頻度はどんどん増しているような気がしている。


少し前の自分にとって、文章は思考が巡りある曲がり角まで来た時点で、一気呵成に書き上げる花火のようなものだった。


書こうと思って指を滑らせるのではなく、考えた結果が文章として湧き出るような感覚。その文章が攻撃的なことも多々ある、というのが欠点ではあったけれど、「誰のために書いているのか」がある意味具体的であればあるほどすっきり尖った文章が出来上がっていった。


決して褒められたことじゃないけれど、激情を時間を掛けて文章の形に整えることが、昔から得意だったような気がする。


強い感情は、強い言葉を集めてきてしまう。感情が高ぶるほどに、表現は冴える。


そんな自分の文章形態が嫌で、五感を混ぜて中和したり、感性の表現を入れて丸めたりしてみた。


そうすると、なぜだか自分でも何が伝えたいのかが分からない文章も生まれた。


ことばはこころから湧き出てくるもの。自分の内側にあるものが混沌としていたら、混沌としたことばが生まれる。


自分で自分に嘘をついていたら、嘘のにおいのする言葉が出る。


ごまかしたり、かっこつけたり、正当化したりしても一緒。なぜだかすっきりしない言葉の流れが生まれてしまう。


字面だけ整えても、そのことばには体温が乗らなかったりする。


だから、怒りや糾弾以外の感情で、文章を磨こうとすることは、そのまま自分を磨くことなのかも知れない。と感じている。


すてきな友人達が何気なく日々のことを書き綴るFacebookの投稿や、ちょっとした手紙に胸を打たれる瞬間がある。そういう瞬間が幾度となくあったことを、この文章を書きながら思いだした。

そして、そんな彼ら彼女らの文章をまた読みたいと思っている。


内容なんてなんだって良いのだ。気持ちのいい人は気持ちの良い文章を書く。ことば達の中にはその人がいる。


そういうことばを生み出す人になりたいと、そういや思っていたんだなあ。と言うこともまた書きながら思いだして、これを書いている数分間で僕は勝手に救われている。


発信することが、心のガス抜きになった一例をここに報告する。





書く前は先日の雷くらい静かに荒れていたのに、不思議なものです。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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