美味しさに疲れる時

最近、考えていることがある。


現代における美味しさの主成分はだいたい同じだ。


塩、脂、旨味


この3つで大体のものは美味しくなる。


マックとかスナック菓子、ラーメンなど


一見別の食べ物も、同じ計算式で構成されている。


昨年自粛期間中に在宅勤務となっていた2ヶ月間、ほぼ毎日ご飯は料理系Youtuberの動画を見て作っていた。


そうした料理は確かにその瞬間は美味しい。けれど食べた後に確実に眠くなるし、なんだか疲れることに気付いた。


美味しすぎるハンバーグ、美味しすぎる青椒肉絲、美味しすぎる唐揚げ・・・



美味し「すぎる」のだ。味覚は最大限満足させられても、今思えば身体がうんと言わない料理ばかりだった。


人間は美食を追求するあまり病を喰らうようなことを時々する。天然の理に背いてしまう。


脂肪肝を食べるフォアグラ、人間だったらメタボ確定の霜降り和牛、子孫の出来ないF1野菜・・・


美味しいんだろうか?僕は体質なのか実は昔からサシの入った肉が苦手である。噛みしめた瞬間湧き出る脂肪に嗚咽を堪えたことも幾度かある。ご馳走になることもあり失礼だと思ったので言わないようにしてきた。


だが近年、身体の言うとおりに、腸と対話し、DNAレベルで刻み込まれているような古き良き時代の食事を志向するようになってから感覚の鋭敏さは増してきている。世間的にそれが「価値ある食事」とされていても、身体が不要というなら食べる必要はないのだ。


逆に自分で食事を作れず外食が続くと分かりやすいほどにエネルギーが減じてくる。


ここに気づけたのは、あるシェフの方との出会いが大きい。


現在はmaro.として活動している彼の料理は、既存の美味しさを飛び越えて身体全体が美味しいと感じる料理だった。


こんな世界があるのか…。食べたその瞬間衝撃を受けた。

悲しいわけでも無いのに涙が出てくる料理。いつもの法悦である。身体が間違いないと言っている。この上ないゴーサインだ。

肉も魚も使われてないその一皿のカレーは、僕の中の料理の概念を覆した。

それから、食事について少しずつ変革が始まっていった。


食事を考えるときにカロリーの目安などがよく言われるが、食品としてカロリーが高くても、生命的なエネルギーが補充されるかどうかとは別の問題だろう。



既存の栄養学を疑う時代になったと思う。大地の恵みを収穫から時間の余り経たないうちに、ダイレクトにいただく事が自分にとって最もエネルギー効率が良いことに気付いてしまった。


そうした食品は市場原理から多くは出回りにくい。足で探していく必要がある。


むやみに高級なものではなく、美味しすぎるものではなく、地に足の付いた食べ物を、未来のために食べていきたい。


松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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