白と黒のはざまで

2020年以降の自分が昔と変わった点は?というテーマでは過去に何度も記事にしてきた。


けれどおそらく、根底の部分で地味だけれど重要な変化としてあったのは


「白黒つけないグレーゾーンが広くなったこと」だと思う。


理性か感性か、ではなく時に応じてどちらも。いい人か悪い人か、と決めつけたり、~な人に悪い人はいない、とかそういう変なラベリングを排斥すること。

ラベリングは選民思想につながる。共同体意識がエスカレートすると集団的暴力が始まる。


答えはいつも一つ、というのは学校教育の弊害の最たるもので、物事は大体のことが時と場合による、という事に気づき、保留解を持ち続けることこそが真の教養だったんじゃないかと最近では考えるようになった。


答えを決めないと前に進めないじゃないか、という反論もある。ただ、自分の中では答えを一つに決めて考えるのをやめるのは逃げだと思うようになった。その瞬間、一応それを現状解として前に進むだけで、撤回や修正の余地は残されてしかるべきだ。


好きなアーティストのスキャンダル、信じていたパートナーの浮気、いい上司の暗黒面


勝手に信頼しては裏切られ、人はショックを受ける。そもそもどっちもあるのに、だ。


自分は育ちの影響か人を完全には信用できない。むしろ信用できないという事実だけが信用に値すると考えてもいる。両面あって当然なのだ。この自分がそうなのだから。


小学校の「みんなともだち」理論には辟易した。学校の中には友達、苦手なやつ、なんでもないクラスメートなど、スペクトラム状の人間関係がある。上記理論はその現実を幻想でぶち壊す。閉じた空間であればこそ、特別仲良くはしないけど危害も加えない、緩衝地帯が必要だ。これは職場にも通じる。別に好きじゃないけど邪魔せずいい仕事はできる、くらいの関係性は貴重だ。勝手に仲間じゃない認定をして足を引っ張るとか企業にとって生産性の低下も甚だしい。


いわゆるニュースの傾向として、「キーワード化」は現代社会の不調の最たるものだなと感じる。何に急いでいるのか全く分からないけれど、情報は「手早く簡潔に」伝えることこそが最善だとされどんどん言葉が省略される。自然とミスリードも増える。ひどいものではミスリードを楽しんでいる節もある。大衆を煽動できるのは自分達だと疑わない傲慢さがにじみ出るものもある。新聞の見出しやネットニュースもひどい。特に共同通信社の記事はミスリードを誘うトラップ頻出である。そして省略されて歪められた情報に限ってバズる。感情にダイレクトに訴えかけるからだ。

調子に乗った政治家はうまいこと言った感のあるキーワードを連発してしたり顔になる。

本質的じゃなくても語感が良ければ流行る。でもそのキーワードは物事を解決に導かない。

三密が事態を収束に向かわせましたか?まんぼうってもうそれ言葉遊びじゃないですか。


複雑系の思考回路を各々が磨き上げる他に衆愚政治脱出の道はない。

簡単には答えを出さない「のろさ」こそが今の時代には必要なように思う。


複雑なことを手放して、思考のリソースを他のどこに割くのか。

分かりやすさと手っ取り早さに飛びついて、たどり着くのは地獄しかない。


ワクチンもそうだ。


副作用の問題性か、ワクチン接種による現状からの脱却感か


メディアのトレンドは「どっちか」しかない。


TBSニュースの独自調査で196人、厚労省報告事例で85人のワクチン接種後の事例が上がっている。

倍以上数値が違うのはかなり問題があるが、いずれにせよ、偶然人が死ぬには状況が重なりすぎている感は否めない。とか言うとSNSで適当なことを言うと・・・とお𠮟りを受ける気もするが。直接的な因果関係は証明されていないし、これからも証明されないと思う。


ただ、国も方便で、自分たちが主導で無償で進めているワクチン接種でいくらかの不具合があったとしても、ただちに「相関関係を認める」ことはしないだろう。権力者側の心理を考えると、賠償問題になりうる証明には乗り気にならない。これは歴史的にも繰り返されてきた過ちのテンプレートに似ている。きっと何十年か経って「関連性がなかったとは言い切れない」とか言い出す感じがする。いつものやつだ。政府が悪いとかではなく、権力ってしょせんそういうものだよね、という感覚は一般市民として当たり前に持っておいたほうがいい気がする。


公害の問題とか、集団海外移民とか、特番で「国に騙された・・・」みたいなシーンは結構見るけど、エリートと呼ばれる人種に集団的に権力持たせたら権力の保持>国民の安寧、の図式になるのは世の常だなあと感じる。


そういう局面で、ワクチンを打つべき、とか打たないほうがいいよ、とか言いたいわけではなくて、リスクと利益を自分で考えた上で、最後は自分の本能に従うしかないんじゃないかと個人的には考えている。

自分は大丈夫な気がする、ありがたく受けとこう。と思えるか、なんかやな感じがする、と感じるか。ここには答えがないのだ。どちらを感じたか、大丈夫と~~じても運悪く命を落としてしまうかもしれないし、大丈夫かもしれない。銃口を向けられたその瞬間に感じる自分の感覚を信じる、今のところの最善の方針はそのあたりなんじゃないかと思う。

一応2回受けて運よく生き残った自分も、一度まな板に上ったら、何か感じずにはいられないものではあった。


『五感の力』という本に、昔の事件で毒入りミルクを赤ちゃんは飲まなかったがお父さんは飲んで死んでしまった。という事例が書いてあった。肝心な時に身を守るのは理性よりも動物的な直感である。


現時点では確率は1522万分の85人か196人である。決して高い倍率ではない。けれどその数字を見て「自分は大丈夫かもしれない」と頭で考えるなら、正常化バイアスにはまっているかもしれないし、それが直感かもしれない。


リスクも全国民一律ではない。死亡率は新型コロナ本体同様年齢が上がるほど高くはなる。これも相関関係がもしあるとしたら、という事にはなるけれど。


人類史上最も新しいワクチンが、コロナから解放する福音になるのか、確率の低いロシアンルーレットになってしまうのか、今後の歴史がじきに証明する。

医療者も一枚岩ではない。直接重症患者の治療に当たる医師たちとそのほかの部署では文字通り世界が違うんだろうなと思う。地獄を毎日目にしている彼らなら、どんなリスクを差し置いても打つべきと考えるかもしれない。


令和は、ある意味絶対解の存在しないことを再確認していく時代なのかもしれない。

その反面「噓のつけなさ」という意味で次々と今まで形を保っていた虚構が崩れ落ちていく感覚もある。もし今後もオリンピックが継続したとしても、「権力と利権の祭典」というバッドイメージは払拭されないだろう。


素直に素朴に。嘘がつけない時代に、嘘をつかなくて済むように生きる。










松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

0コメント

  • 1000 / 1000