風邪熱談義

熱が出ると思い出す文章がある。


河上徹太郎の風邪熱談義という文章だ。本で読んだのではなく、高校時代の参考書か模試で読んだ文章で、妙に印象に残っている。


子どもの頃、風邪を引いたときの思い出として、布団の中で母親の料理の音などを聞きながら普段とは異なる時間を過ごす事の甘美さ、熱に浮かされながらの夢心地を描いたものだ。


確かに、子どもの頃、風邪は非日常の時間の象徴だった。


すり下ろしたりんご、ポカリスエット、卵粥などの特別メニューが供され、熱に浮かされながらも氷枕や冷えピタの感覚に身を委ねる。気だるく重い身体も、鈍い頭痛も、これでもかと「身体がある」ことを主張してくる。


河上徹太郎が僕に投げかけたのは、レジャーとしての風邪の意義だった。風邪も中々悪くないよと彼が語る、非日常の官能としての風邪の魅力は、高校生には意外すぎる世界だった。


そして、病としての風邪の意義として、風邪は治すものではなく経過するものだと喝破したのは野口晴哉だった。


風邪症状と共に、日頃ため込んだ身体の歪みは整復される。『風邪の効用』にはそんな話が書かれている。


風邪の時に風呂に入るか問題に関しても、明確な答えが提示されている。


レジャーであり、リトリート的な側面も持つ風邪という現象。この事を思うと、健康で日々を送る上で、風邪を引く権利は各人に保障されると良いなと思うようになっている。


昨日コロナワクチン二回目を医療者として受けてから、37度台の発熱を経験した。上記はそんな中で考えたことである。


そういえば昨年から1年以上、熱も出さない、風邪も引かない日々を保ち続けてきた。


多くの労働者がそうだと思うが、発症前から感染性があるなんて言われたら職場では熱も出せない、咳も出来ない、という閉塞感の中で生きている。

通常の感冒と一見違いが分かりにくいから体調でも崩そうものなら連動して何人も休むことになるかも知れない、通常業務に大いに支障を来すかも知れない。そんなプレッシャーが強い。


未知の感染症への恐怖感とは別の方向性で、体調管理の厳しさと閉塞感に苛まれる日々が続いている。


そうした「熱も出せない」日々から解放してくれるかも知れないワクチンの副作用が「発熱する」というのは陰陽のバランス的によく出来ているなと思う。


重篤な副作用で亡くなる方もいるから甚だ呑気な話だとは思うけれど。


外側の環境から影響を受けながらも、精妙なバランスの上に成り立っている自分の生命に今はただただ感謝する。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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