「好きなもの」には何かある

最近、不思議な感覚に包まれている。


2才から始めた公文式を発端とする教育の数々は、自分にとって最終的には職業に到達するためのもの、更に言えば好条件の職業にありつくためのものであった。


教育とは、一般的には職業選択の自由を勝ち取るために為される。技能や才能を柱にする一部の職業を除いて、ではあるが。


しかし、自分は物心ついた頃からある種確かに、仕事をして収入を得て、食事を摂り生活を営むのが人生のメインテーマであるかのように教育されてきた。


しかし最近、自分がそれだけに留まらない、二層性の世界を生きているように感じている。


・仕事を営み、食事を摂り、社会生活を営むレイヤー


・感性や出会いに導かれ、本質的な部分で様々なことを経験し考える、深層心理のレイヤー


2つの層は時に重なり影響を与え合い、人間としての考え方を徐々にアップデートしていく


ただ生きる、のであれば最終的にお金と食事と家があれば大体事足りるはずである。しかし人間はそんなにシンプルで縮小された人生を歩みたいとは考えていない。


繰り返しの生活を豊かにしうるもの、音楽、芸術、文学など様々なエンターテインメントを渇望する。


アメリカに留学していた先輩に、留学前に準備しておくべきことを聞いたら、「趣味を持て。向こうでは仕事しか知らない奴はつまらない奴だと見なされる。」と意外な言葉が返ってきた。


仕事上の付き合いのために、趣味を要する。


教養とでも言い換えればしっくりくるだろうか。仕事で一流を目指すなら、人間としての幅が問われるようだ。


では、話題のためだけに何かを追い求めるのは愚劣な行為であろうか、最近になってそうは思わなくなってきた。


自分がなんとなく好きだと感じる色、音楽、匂い、食事、人、物語・・・


導かれるように、いいなと感じるものたちには何らかのエネルギーが宿る


そしてそれは、自分の深層心理をより深くより広くしていくための、何らかのヒントになっているように思えるのだ。


なんか好きだった歌をカラオケで歌ったら思わぬ歌詞の深さが改めて心に沁み入ったり


魅力を感じていた俳優が、自分と同じような考え方を持っていたり


尊敬する先生の本棚に、自分も読んだ本が並んでいたり


「好きだ」という感性を磨くことこそが、自分の次の方向性を示すことだったりするのではなかろうか。


「好き」を掘り下げていこう。ロジカルにではなく、感性で玉葱の皮を一枚ずつ剥がすように。


そして「好き」に自信を持つといい。


自分が自分であることを問うていく過程で、自分の興味が緩やかに外枠を縁取ってくれる。


最近やっぱり好きだなと感じる曲に、ハロプロアイドルのアンジュルムというグループが歌った

「人生すなわちパンタ・レイ」という楽曲がある。


ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの引用から始まるその曲は最初「中二病か?」と思うかも知れないが、若い女子達の等身大の日常を描く歌詞の中で

「わたし」ってなんでしょね?

って言わせる。この年頃で出会うであろう哲学的思索を逃がさないワンフレーズに痺れてしまう。


楽しい曲に仕上げながら哲学的な歌詞を叩き込む前山田健一氏の遊び心に、ああ、やっぱり分かる人は分かってるんだなぁ、という感想を抱いた。


一人の人間が経験してきたもの、考えたこと、感じたことを歌詞とメロディーに乗せて、今まで存在しなかった1曲を生み出す。


学歴とか偏差値とか関係なく、これってめちゃくちゃ凄いことだなと、恥ずかしながら初めて気づいたのだ。


ちなみにパンタ・レイとは万物流転という意味らしい。久々に世界史の知識が蘇る。

点数のための一語としてさっと触れて通り過ぎてしまった様々な言葉の中には、きっと知れば楽しく共感できるような、豊かな奥行きがそれぞれあったんだろうなと思うと、勉強という言葉は本来とても心躍る行為のはず。


何でも極めていくと、本当の世界に突入していく。別々に出会っていたもの全てが等しく真理を内包していたことが突然分かってくる。


「好き」を信じるとは、自分は自分の登山道で真理に向かっていく行為に他ならないのである。






松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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