固有名詞の国際交流

何年か前にできた、マレーシアの友人と連絡を取るために入れていたWhatsAppというアプリがある。LINEのようなものだ。

それに先日、不思議なメッセージが来た。

「こんにちは、はじめまして
よろしくお願いします。
あなたは日本の現地ガイドの山田さんですか?」


いや、誰じゃい・・・?


皆さんご存じの通り、僕は山田でもなければ、現地ガイドでもない。

「いえ、人違いです」

そのように答えたところから、何度かメッセージのやりとりをした。

相手は中国人で、google翻訳を駆使して日本語でメッセージを送ってくれた。

現在の日本のコロナの状況、観光の状態、お互いの仕事から生活の話まで。


会った事の無い相手と、そんな話をするなんて!と思われる方も居るかも知れない。

相手は本当は中国人じゃないかも知れないし、話の内容も嘘かも知れない。


でもそんなことは別にどうだって良いのだ。

相手が本当かどうか分からずに連絡を取るなんて文化は、昔のペンフレンドの時代から大して変わってはいないし、率直な物言い、お節介とも感じるような距離感の近さは、中国人のイメージとも重なる。


こちとら小学生の頃からネットに親しむ世代。相手が本当は誰かなんて、その瞬間のやりとりの面白さの前には大して重要ではなくなる。


ネットが発達している割には、現代は主語が大きく狭量な見方が蔓延る。


中国人は〜韓国人は〜ネトウヨは〜ゆとりは〜

など、後半は別に良いとして、前半の国際的な問題に関して、それぞれの国に友人がいて物言いをしている人が果たして何人居るだろうか?


コロナで一時的に頓挫しているとはいえ、これほど世界が近くなった時代にも、海外に友人が居る人がそれほど増えていかないのは何故だろうか?


WWⅡの時代、我々のご先祖に、米英に友人が居た人は数えるほどしか居なかったのかも知れない。

その無知性が相手を殺傷せしめる精神性を可能にしたのではなかったか。


逆に言えば、個人個人が世界のそれぞれの国に一人ずつでも友人を持てば戦争など不可能になるのではなかろうか。


国を守護にして、雑にまとめるかた敵対視などが可能になる。


親愛なる友人の住む国が世界中にあればもっと議論は慎重になり、扱いも丁寧になるのではないだろうか。


偶然出会った本当に存在するかは分からない異国の友人とのやりとりから、こんなことをふと考えていた。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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