「何を選ぶか?」という問いで未来の自分を選んでいる。

最近身の回りでしきりに耳にする問い


「何を書くのか?」


派生型として「何を読むのか?」もある。人が生きるということにフォーカスしたらこの問いは無限に派生するだろう。


「何を食べるのか?」「何を仕事にするのか?」「何を着るのか?」「何を持つのか?」「何に乗るのか?」


自分が何気なく手に取るもの、口にするもの、袖を通すもの、所有するもの・・・


なんとなく選んだとしても、それが既に自己表現になっている。未来への投資になっている。


あなたが選んだそれに関して問いを付け加えるならば、「考えて」選んだだろうか、それとも「心地よさで」選んだだろうか?


思考は間違いうる。世間的な評価、知らず植え込まれた宣伝、値段やスペックの比較・・・


「損したくない」と思うことで本心からの声を歪めてしまうかも知れない。


心地よさも、心地よさ100%で選ぶのと、疲れが溜まって感度が鈍った状態で選ぶのは異なるかもしれない。


普段は健康志向でも、疲れたときにはビールを飲みたくなったり、ジャンクフードを食べたくなったりするかも知れない。


自分も少しずつ菜食にシフトしつつあるが、今日はさっき夕飯としてマックを食べた。


それが良かったのかどうなのか。食事1つとっても、のどを通過するまでの「おいしさ」はそこそこでも、それが身体に対してどう影響したのかは食後の体感覚が教えてくれる。


食べ物として身体をどう通過したかの結果は半日ぐらいたったら腸が教えてくれる。


食事は飲み込んだら終わり、じゃないことを最近身を以て学んでいる。


食に関してはまた後日、まとめて書きたいと思っている。


何を仕事にするのか、も深い問いになる。

自分の偏差値の天井がそこまでだった、とか、家庭の事情であきらめた、とか、そういう見かけ上の条件の下に、導かれるようにその仕事に辿り着いた理由があるかも知れないし、全然ないかも知れない。


何を着るのか、はファッションとして自分をどう見せるかの追求になる。がどう見えるのかに踊らされ続けると、見かけだけ整えて本質を見失う。人からどう見られるかは極限まで行くとコントロール出来ないし不毛な努力になってしまう。

ただ、「自分がそれを着たいから」という理由で研ぎ上げるならどんな格好をしていようがそれは最高に格好いいと思う。


上京してきてから、色んな人の部屋にお邪魔してきた。素敵だなと感じる部屋は、どの部屋も片付いていたし、どの部屋にもその人の神経が通っていた。


その過程で、部屋は自己表現なんだな、と時間をかけて気づいてきた。その人が選んだもの、その人が選ばなかったもの、物を置かない選択をした空間、その部屋における「有と無」が家主の奥行きをそのまま体現していた。


何のことはない。この文章は全て、自分の為に書いている。自分は最近どんどん人や本から影響を受けて、長らく積み残していた色んな人生の課題を一つ一つ消化していく時期に入った。

どんどん身軽になっていく流れの中にいるのを感じる。その1つがランニングを中心に体重を軽くしていくことであり、もう一方が断捨離を中心に住まい方を軽やかにしていくアプローチである。


無駄に重厚化した自分の日々の暮らしが、鎖を外す如く軽やかに解放されたとき何が起きるのか。


「持たない」ことの選択は何をもたらすのか。


僕は今、自分の人生で大きな実験をしている最中なのだ。

本のマリアージュ:世の中の見方変わりますよシリーズ

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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