4次元ふろしき

生きていて楽しいと思う瞬間って、どんな時だろうか。


美味しいものを食べたとき、好きな人と一緒に居られるとき、友達と笑い合っているとき


人それぞれ、限られた時間軸の中で心に残るひとときを、宝物のように携えて未来に進む。


上記のような楽しい時間と自分が感じるものを付け加えるとしたら、自分が何者か、断片的にでも思い出した瞬間を挙げる。


人は一人の人間として教育を受け、成長し、社会の中で生きて、次の世代に何かを手渡して死んでいく。


その一連の流れがミクロな視点の人生だとしたら、よく分からないけれどもっと壮大なスケールで展開していく自分の成長が、マクロな視点の人生として見えてくる。


誰かの言動に心曇らせる瞬間、人を支配しようとしていた自分に気づく瞬間、同じような別れを繰り返していたことを自覚する瞬間、自分の拙さに苦笑いしながら、弱さを受け入れる瞬間


痛みと苦みを伴いながら人生の端々で起こる経験が、日常の一事象としてだけでなく、どこかでそれが準備されていた宝箱のように、開けないと次に展開しないような直感を揺り起こす。


それを経験しなければなかった。というある種の確信と共に。


「やな感じ」と思いながらも視点が変わることで感情が消化され、確かな何かが自分に加わる瞬間


良い感情も、悪い感情も、自分を構成する一部になってひたすら大きくなっていく。雪玉のように。



子どもの頃、色々なことに興味を持ち、とりあえずかじってみる自分の性質が余り好きではなかった。


同じように色々なことに興味を持つ6歳下の弟は、何を始めても一通り出来るように習得してから次に向かうのに対し、自分は中途半端のまま飽きてまた次のものに飛びつく。


永遠に何も身につかないのではないかと愚かしく思ったこともある。


最近、その感情がほどけてきたように感じる。


自分という存在の本質は、おそらく、永遠に広がり続ける大風呂敷のようなものなんだろう、と。


興味を持ったらやってみる。肌に合えばゆったり続ける。一生やるかなんて自分にも分からない。既に去年の自分と、下手したら数ヶ月前の自分と今日の自分はとうに別人になっている。


そうやって、広げて集めて、自分を構成する色が増えれば増えるほど、異次元のひらめきがまた面白そうな方向に自分を連れて行く。


本がヨガを呼び込み、ヨガが発酵を呼び込み、発酵が農業に目覚めさせてくれた。


そうして辿り着いた自然と共にある、というビジョンは気づいたら幼い頃自分が大好きだった祖父母の家の庭と畑の姿だった。


色んな事を経験して、広げて、遠くに行ったと思ったら原点に返ってきている。


きっとそういうふうに出来ているのだろう。果てしなく走り続ける自分の興味が自分をどこに連れて行っても、自分の中心軸は変わらず、より解像度を増すだけだろう。


だから、全力で、「自分でもよく分からないけれど、今はこれが面白いと感じる」というものを追求していきたい。


それこそが、マクロな視点の人生に気づき、自分という人生に全集中する事なんだと思う。




畑仕事、はじめました。


今日の一曲: 槇原敬之「PENGUIN」


松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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