本を読む。それを読書と呼ぶ、一般的には。
今は、星の数ほどの出版物があり、そのほとんどがあっという間に絶版になっていく。
単に消費される情報と、一人の人間の思考・行動を変えてしまう良書との出会いの違いはなんだろう。
読んで面白かった!と感じて終わるストーリーと、物語の形で問いを投げかけてくる文学の違いはなんだろう。
別に本を読むことに意味を求め続ける必要はない。「何かのために読む」のって結構しんどいことだと思う。
本を読んで社会に騙されないようにするんだ!って肩に力を入れる必要も、最近はないかなと思うようになった。何かを否定するエネルギーは、何かを肯定するエネルギーと表裏一体だから、反対しようが賛成しようが世間の問題は消えてなくなりはしない。
じゃあ何で読むのか?僕の場合は、だけれど「本を鏡にして、自分の心にナイフを入れる」ことが読書だと思っている。
何それ痛そう、とちょっと引いただろうか。もう少しお付き合いいただきたい。
僕が少し前の自分含め、周囲の「人生でなんかちょっと上手くいかない人」の事を考えていたときのこと。
社会的に成功するかどうかは、「ゲームのやり方」を知っているか/実践しているかの問題であって、ここは正直どうでもいい。人によって、各々が進むべく用意されたシナリオは主題が違うと思うから。
ただ、社会的に一人の人間として責務を全うするのみの人生を生きて、年を取る毎に教育されて社会に適応する中で、どれほど多くの人が自分の内なる声を握りつぶしてきたのか、と思うといたたまれない気持ちになることがある。
あなたの心はその状況に悲鳴を上げてますけど、お気づきになりませんか?って
自分もまだまだ沢山ある。無自覚な感情の歪みが、気づいたら同じ過ちを引き寄せていく。
だからこそ、本という鏡を前にして、「これ自分もそうかも知れないな」と振り返る事って、何よりの自己探求になると思っている。
そして、現象として起きる「嫌なこと」「腹立たしいこと」「悲しいこと」を、感情を堪能した後でふっと訪れる余韻みたいな時間の中で「ちょっと待てよ、何でこれが起きたんだ?」って考えることこそが人生なんじゃないかと思っている。
僕は昔から少し嫌なことの後の方が、画期的な閃きで自分が何かに気づいた快感を味わってきたものだ。
宗教的な文章とかでは、人生には経験すべき事しか起こらない、と表現されることがある。
個人として絶望するような現象に飲み込まれることは幾度かあるかも知れないけれど、その感情が過ぎ去った後にでも、自分を抜け出して頭の上から眺めるような感覚に気づければ、その経験は十分に経験され得たということになる。気づけば二度目はなくなる。
と、個人的には思っている。
悟りを開いたわけではないし、若造が知ったような口を訊いているに過ぎないのだけれど、これが自分の世界観なんだなあと改めて思う。
だから読書は本質的に、実践と自己探求という、思想を離れた自己のプラクティスと表裏一体であるものなんだと最近になって分かってきた。
だからとにかく読んだら動く。肉体的にも、精神的にも。
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