白と黒のあいだに

子供から大人になる過程で、答えは1つに定まる。というある場面では成立し、ある場面では不成立となるこの問いかけを、後者の視点で考えるようになる時期が誰しも一度は来る。


思春期である。


「学校」という装置はとても良く出来ていて、上記の後者の視点を意図的に捨象することで、効率よく生徒に一定の成果を与えうる。前時代的な成果を、であるが。


自分は何故生まれてしまったのか、この学習に果たして意味はあるのか、友人とは何か、愛するとは何か・・・


自分の中の深淵から湧き上がる問いに周囲の大人は答えを持たない。問い続けているからか、問うことを忘れてしまったか、その理由は複数存在する。


そんな不信感が反抗期に繋がる。この時期はとても大切で、「大人」という漠然とした思考停止の民に対する反抗無くして問いを深める道はない。


そんな小さなファイター達も、将来というニンジンを目の前にぶら下げられ、いつしか敵方に陥落していく。


絶対的な答えは無いと言葉の上では分かっていながら、無意識に白か黒かで全てを判断する穿った存在へと・・・。



先日、優生思想的なコメントで話題になったアーティストがいる。RADWIMPSの野田洋次郎だ。


当然物議を醸して、様々な批判意見が渦巻いたが、その中にRADWIMPSの楽曲や世界観ごと否定するコメントもあった。


そういう意見もあって良い。嫌いならそれはそれでいいのだ。だが、騒動を受けてその人が野田洋次郎の属する全てを否定するポジションに立ちたくてそれを発言したのなら、どうだろう。


RADの曲を僕は悪いと思っていない。歌詞を細かく読んで理解しているわけではないが、感覚として「あ、良い曲だな」と思っている。


問題は人々の意図する批判が、「相手の全てを否定するものである」この一点に収束してしまうことの生きづらさを象徴していることにある。


人の内面はドロドロした物である。自分を鑑みても、良い面と悪い面とを切り分けることなど到底出来ない。


人によって態度を変えるなとはよく言われるが、押せ押せの人と引け引けの人に僕は同じ態度で接することなど到底出来ない。前者に対しては陰よりの聴き手に回るし、後者に対してはやはり饒舌になる。


そもそもアーティストとは、人と異なる視点を人に理解できる範囲にアレンジして届けるから人気が出るのであって、個性的な意見は付属物みたいなものだ。そこに常識とか正当性を求めるのは難しいし、常識的なコメントばかりするアーティストの楽曲に新鮮さを感じるだろうかという問題もある。


だからそういう発言をしたら、「あーまた始まったよ」と優しく見守るのがちょうど良い。


芸術分野で圧倒的な才能を持つ人間も、人間的に尊敬に値するかどうかは各アスペクトをみてそれぞれ判断すれば良い。


「部分的にはいいね」なんてものをソーシャルメディアに実装しても面倒くさくて押さないとは思う。


まあ、分かって騒いでるんでしょうけれど。



それと似たようなことが、「先生」と呼ばれる職業の人間においても起きやすい。


80歳といくつかになる僕の歯科医師としての師匠はよく


「先生」と呼ばれる程の阿呆はなし。いいえと言ってそっぽを向けよ。


と言っている。


どういう意味かというと「勘違いして偉くなるなよ」といった事なのだろうが、最近周囲を見ていてそれだけでは無いことに気付いた。


「先生」とは職種は様々でも基本的には話すこと、書くことを有り難がられる仕事である。それを裏切り続ける人種も居るが・・・。


そして、その扱いが続くとある種の欺瞞が自分の中に生まれる。


「自分の言うことは意味があって正しい」「自分は語る人、目の前の相手は聞く人」という無意識のポジション取りである。


これを読んでくれている先生諸兄の中にはそうでは無い人も居るのは重々承知している。これは書いている自分に刺していく類いの言葉である。


ただ、「先生」と呼ばれる人がそのフィールドを出て、いかに肩書きを感じさせず他分野の友人を多く持つことが出来るか、ということに大きく関係している気がする。


自分が「先生」と呼ばれない居酒屋を持つこと。居酒屋じゃ無くてもいいけれど。


いつも自分がお大尽になれる場所なんて異様で不健全である。原生林に落ちた外来種のタネみたいな物で、それはいつしか生態系を狂わせ、場を食い尽くしてしまう。会社の愚痴を馴染みの居酒屋で吐く新橋あたりのしがないサラリーマンを笑うことは出来ない。


「先生」なんて呼ばれるからこそ、自分で自分に問いかけていく必要がある。


目の前の人は「あなたの話は確かに面白いし、為になるけど、皆あなたの話だけを聞きたいわけじゃない」って思っているのではないか?


そういうサロン的な場での会話に意味は無い。無いけれど、その場の全員が参加することで生み出されたひとときこそが、圧倒的なジャズのセッションのように、居た人の心の中でいつまでも輝き続けることがある。それは独壇場では決して味わうことの出来ない、余韻になる。


教育の力が絶大であるばかりに、それに関わる一人格が「教育者」のみになってしまうと人を常にジャッジしてしまう癖が出るし、苦しい。


水平で双方向の関係性の世界に浴する楽しさをどんどん知ると良い。


執行草舟の質疑応答を名古屋で聞いたとき、どの先生も生徒を「なんとかしたい」という情熱にあふれていたのに対し、氏は「背中で語れ」「感化はしようとしてするものではない」と繰り返した。


目の前の人を「変えよう」としなくていい。種を投げかけるのは良い、けれどその人がそれを伸ばすかどうかは、その時のその人次第なのだと。


前述した師匠は僕を「実験動物だ」と言う。不思議と嫌だとは感じない。それは「種は投げかけたぞ。あとはおまえ次第だ。」という期待と問いかけが織り混ざった熱いメッセージを僕が感じ取っていたからに他ならない。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

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