馬鹿に戻ってやり直せ

2022年の10月は、自分にとっても、周囲にとっても怒涛の日々だった。

やるべき事たちを後回しにしてきて、なんとなくやり過ごして、うまくいっているような気がしていたが、それは全て錯覚で、やることなす事全て上手くいかず、予定の遅れがまた別の遅れを生み、方々に迷惑をかけた挙句、上司たちに失礼なことも散々してしまった。それはもう、自分自身の怠惰と不誠実さが存分に発揮された過程だったのだ。

今までなんとなく生き、なんとなく働いてきてしまったが、それではもう無理なのだと、態度の限界を身をもって学んだ。

自分の暮らしに関しても、今後の学びのためにも、全てを整え、流れを良くしていかなくてはならない。それはきっと、僕のような人間には、どん底か成功のどちらかしか起こりえないからなのだと思う。

人並みにこなし、人並みの成果を得るなんて器用なことは自分には出来ない。

自分が今後、両極端のどちらに属するか。明暗を分ける日々はもうとっくに始まっていたのだけれど、鈍いため中々気付くことができなかった。

そんな節目に用意されていたのが、10/30の横浜マラソンだった。

今まで、人生最長の距離は高校時代の28km走、通称「速歩遠足」だった。
それすらも、例年前半で早々に体力を失い、後半を歩いたり走ったりでなんとかゴールに辿り着くお粗末なものだった。当時の僕に、休みの日にわざわざ走って練習しようなんて殊勝な心がけは皆無だった。だから今になって、走ることを楽しめるようになった自分にびっくりしている。

走ることは僕のような性質の人間にとって、実は意外と相性がいい。

なぜならば
・1人で完結できる。
・走った距離が達成感につながり、簡易的な成功体験となる。
・身体の負荷を上げると、思考が薄まり、気分が晴れる。
などが挙げられる。

流石に42.195kmも走ると後半は気が滅入り、煩悩と足の痛みとの戦いになるのだが、5km10kmだとまだ楽しく走れる。今回の大会に至っては、15kmくらいまでほぼ普段のペースでも全然平気だった。

また運動、トレーニング全般がそうなのだが、筋肉を作るために一旦壊す、というのがいい。

機能不全を起こしたシステムは、一度壊さなくては適切な形に近づかない。

そういう意味で、この10月は、精神面でも、身体面でも、これまでの自分を大いに壊すいい機会となった。

節目というのは大事である。

昔から、受験を境に全く異なる環境に突入することが好きだった。

周囲の「あいつはあんな人だから」というイメージは、安心感にも繋がりはするが、チャレンジと変革の枷になる。知らずそのイメージに甘え、自分が停滞していく。自身のイメージを振り払うくらいの行動を、中々できないのだ。

自分は人の目を気にしないと思っていたが、こういう外部イメージにかなり引きずられるらしい。
教育学ではピグマリオン効果といって、先生から期待された生徒は成績が上がる、という効果に近い。

人は外部イメージに合わせようとして、道化を演じることがある。

だから、この外部イメージを一新する機会は、それまでのイメージが良くても悪くても、歓迎すべきことになる。その自分に飽きた時、そうではない自分に舵を切れる格好の機会となる。新しい自分になれば、面白いものに出会う機会は増えていく。


今回、自分でも意図しなかったレベルで、たくさんの過ちを犯し、周囲のイメージ以上の馬鹿であることを散々に露呈したことで、卒業してから地続きの環境でまとわりついて来たイメージを自分なりに破壊できたと思う。学生時代は環境に過剰適応して、本来のポテンシャル以上のものを引き出していたが、それを続けるのは精神的にもしんどい。あくまで期間限定の必殺技になる。そこで発揮される力は相当なものがあるけれど、代償は大きく、知らず自分が削れていく。それは自然じゃないから、もうやりたくないのだ。


だから今こそ自分で、「馬鹿に戻ってやり直せ」とスイッチを入れ直すのだ。

それくらいのところから、やり直す方が気が楽でいい。
馬鹿から這い上がる方が、ブランドイメージを必死こいて保つより数段楽なのだ。

自身の破壊と創造をいくつになっても、楽しんで続けて生きていきたい。

松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

0コメント

  • 1000 / 1000