この世に生を受けて28年が経つ。
恥ずかしながら社会人としての仕事歴よりも遥かに長く学習者としての経歴が勝っている自分にとって、自信を持って話せる一大コンテンツが実は「お勉強」の話だったりするのはなんとも情けない。
それも今となっては過去の遺産にしがみつく醜さよと笑ってしまうが、自分の中でどこか物心つく前から始まったこの学習という営みの歴史に形を与えてやらないととせっつく感情があるのも確かで、だったらブログかnoteどちらかに、誰が必要とするのかしないのか分からないけれど、勉強についての一家言をしたためてみるのも1つかと思い直してひたすらにキーボードを叩いている。
はじめに、今これを読んでいただいているあなたは、勉強が好きだろうか?
僕は勉強が好きだ。新しいことを知るのはそもそも好きだったが、勉強自体は色々な方法を研究して、自分なりに結果を出す方法に辿り着いてやっと、好きだと思うようになった。
でもその過程には、人と比較して嫌な気分になった日々も、自分の頭の悪さに卑屈になりそうなときもあった。
世間的に確かに「地頭が良い」人はいる。けれど、一般的な学校生活や資格試験などの勉強に関しては、難易度が整えられたゲームみたいなものなので、突破法は確かにあるのだ。
それは現在医療系国家試験の中で64%台という指折りの合格率の低さを誇る歯科医師国家試験においても変わらない。受かっている人がいる以上、どこかしらに突破口はあるものだ。
そんな勉強の仕方を、思いつくだけ書き並べてみようと思う。
- 勉強が出来るということ
まず、「頭が良い」、ということと「勉強が出来る」、ということは重なる部分もあるが異なる部分もある。
頭が良ければテストの問題がすんなり解けることもあるが、その反面道具となるような知識や公式を持っていなければ問題解決には至らない。
「勉強が出来る」とは
課せられた課題に対して妥当な解答を返せる能力
に他ならないからだ。
これは、他の分野でも応用可能なはずで、仕事が出来る人は、依頼人のニーズを分析し的確な成果として返せる人だろうし、理想の異性とは外見的に魅力があるだけでなく、期待される言動を先回りして相手に取ることが出来る、という部分も含まれてくるだろう。教師や親から見る「良い子」とは自分が期待される振る舞いを早々に自覚している子どもだったりする。
これを定期試験などの試験レベルで実践すると
①頻出範囲をまず確実にする。
中学高校レベルなら、使用している教科書に関係する問題集が書店で数百円で手に入る。過去問もあるかも知れない。何年分か比較しながら見ると大体どういう問題が出るのか分かるから、それに対して練習を繰り返す。
という、死ぬほど当たり前な対策ではある。しかし、勉強のやる気が出ない人に程、この原則を徹底して欲しかったりもする。恥ずかしながら昔僕が勉強できなかったとき繰り返した勉強法は、
教科書を頭から読む
だったのだ。出来ないときほど謎の完璧主義が邪魔をする。最初から一つ一つ丁寧に積み上げていこうとする。ちゃんと読了できれば良いが、当然興味は湧かないし眠くなるし力尽きる。よく出るところから手を付けるべきというのは資格試験なども同じだ。単元の順番など守らなくて結構。理解に必要なところだけ戻って知識を拾えば良い。
対策というのは、配点が大きいものからするべきだ。期待値が大きいものに努力と時間のリソースを振り分け、余力が生まれたら細かなところを詰めていく。そしてこの対策は、大いにモチベーションを上げてくれる。やればやるほど本番で取り得る点が積み上がっていく手応えを得られる。学問ではなく勉強においては体系的な理解よりも、時間対効果を上げ、やればやるほど快のスイッチが入るサイクルに力を注いだ方が良い。数学で確率だけ出来る人、生物で遺伝だけ得意な人は居なかっただろうか。まずたった1分野克服するだけでも、科目への苦手意識は裏返り始めるのだ。
大体の人は好きだから勉強するのではなく、出来る手応えを得ることで勉強が好きになるのだ。自分のことを好きになってくれた子に惚れてしまうあの感じに近い。そんな始まりでも、ちゃんと1つずつ深めていけば、最終的にはものに出来る。
そもそも、多数の科目を処理する定期テストなどで時間が無いときにはメンタルをやられる、なんて経験は無いだろうか。焦るほど知識は入らなくなる。そんなときほど、ほぼ毎年出る分野→数年に1回出る分野と徐々に狭めていくことでまず6割〜7割ラインの点数を確保できるだけの知識を用意し、その上であと少し積み上げれば、80点は誰でも取れるようにテストというものは出来ている。0から80点を目指すための努力と、80点から100点を目指すための努力量はほぼ同じだ。まずはコンスタントに8割を取れるようになれば、学習の負債が溜まっていくことに歯止めが掛けられる。
②少し出来るようになったら、惜しみなく教える。
教えることが損だと思っていたり、自分なんかが教えられる立場じゃないと思っていないだろうか。
勉強に関しては教わる立場より、教える側に回った方が圧倒的に理解が深まり、成長が加速する。だからこそ、まず8割取れるようになって、かつての自分みたいに足掻いている人を助けると良い。全科目教えられなくても、得意な科目を教え合うのだって結構良いものだ。
というのを、僕は大学に入って学んだ。大学受験のための浪人時代、最初は高校時代に勉強が下手でしょうがなかった時期の反動で、しかるべきステップで勉強をしてどんどん成果が出るのが楽しくてしょうが無かった。けれど途中で力尽きた。自分の為だけに勉強をし続けるのが僕は辛くて仕方なかった。人との関係性の中で、すぐにでも自分の日々の努力の成果を回収したいと心が叫んでいた。
一人でどんどん深めていける人はそれ自体が輝かしい才能である。僕は移り気で、飽きやすいので8割取るだけの努力の上に、更にもう20点分を追求する根気が皆無だった。だから逆転の発想で、僕は自分の他にも8割取れる人を周りに増やそうと思った。自分より少し出来る、とさえ思ってもらえれば、教える側への扉は開く。昔齋藤一人という日本一お金持ちな経営者の本を読んでいたときに、「教えること」についてこんな言葉があった。
自分が既に出来るようになった知恵はもう不要なものなんだから、
惜しみなく周りに教えてやりな。
という言葉と
目の前の相手が分かってくれるように心を込めて教えると、天から知恵が降りてくるよ。
というものだった。
確かに、出来るようになった知識は自分が獲得した財産ではあるけれど、それを隠したところで自分は豊かにはならない。そして、僕が一浪して大学に入ったとき、1つだけ自分に課したことは
「定員割れでもしない限り、受験に受かるということは、誰か一人分の座席を奪うということだ。
だったら自分は二人分の価値のある学生になろう」というものだ。
今から考えると烏滸がましい限りなのだけど、浪人の辛酸をなめた自分にはそんな気持ちがあった。
そうして大学に入ってから自分なりに考えた二人分の価値の生み出し方が、「自分が試験を80点で受かるだけの勉強をしたら、残りの努力は自分の周りにも80点を取らせよう」だった。
そんな方向に思い切り舵を切ったのは大学4年生になってからのことだったけれど、最低限勉強してあとは徹底的に教えることをしていたら、不思議なことに自分が受かることを優先に勉強をしていたそれまでの三年間を遥かに超える成績を得た。
教えることは自ら学ぶことを補って余りあるのだ。
では、教えることが何故勉強において成長を加速されるのか、考えてみた。
世の中には素晴らしく丁寧な字で見やすいノートをまとめる人が居る。僕の友人にもいた。ただノートの貸し借りは楽なようで居て、自分の頭を通して人に知識を伝えないから何の得にもならない。
人から質問されたり、分からない分野を教えてあげられれば、自分と相手は問題や疑問を共有できる。同じ知識を誰かに理解して貰うために思考を尽くすことが、知識に奥行きを与える。
そして、相手の「わからない」という思考をなぞることが、人の思考をトレースして、取り込むという授業の聴講効率を跳ね上げさせる。
授業が分かるかどうか、人の話が聞けるかどうかは、相手の話を理解しながら追いかける速度に依存する。全部は聞けなくても、「どこから分からなくなったのか」をメモしておくだけでも教師の指導しやすさも格段に上がる。教える側にとって「どこから分からなくなったのかわからない」というのは中々やっかいな状態であるのだ。説明をしていると、相手に通じなくなったな、という瞬間はすぐ分かる。
また、聴くトレーニングとして、ラジオを聴いてみる、というのは非常に有効な学習法だったりする。板書をしながら、耳で教師の喋りを追いかける能力というのは、意外なところで成果の差が出る。
また、板書をするときにも、まとめて覚えて一気に書く人の方が記憶力が良かったりする。一時記憶を有効活用しているからだ。授業を受けて、ある程度聴きながら理解しつつ、分からないところをその日の休み時間に質問に行って消化する、というサイクルは一見面倒だが身につけばテスト前に焦らずに済む。テスト勉強を始める前には全分野の理解が終わっているというのはかなり楽だ。
だいぶ脱線したけれど、教えるというのは勉強の対となる重要な概念だと思っている。学ぶと教える、両方あって初めて学習が完成するのだと、学生の時は強く感じていた。
③思考のなぞり方
勉強の要素にはいくつかある
知識・思考・技能だ。知識が一番効率よく大量に取り込める。単語帳とかが良い例だ。
一方数学や物理などは思考のウエイトが大きく占める。先生の板書を書き写すだけではいっこうに分からない。書きながら思考の流れを頭の中でなぞることが最重要である。
僕の数学がよく出来る友人はクラスで一番早く教師の板書の間違いに気づく人だった。彼がただ書き写しているのではなく、思考しながら板書を追いかけていたことの証明である。
ただ書くのでは、折角の時間が勿体ない。喋る教師を前に、この人はこういうものの考え方をするのだな。と推し量るのは才能ではなく単なる習慣だ。ぜひ身につけて欲しい。
写し書きながら納得がいったら、同じ設問に対して自分が一からその思考のフローを思い出せるかの確認も重要である。
「あの人ならこう考えるな」というアイデアが思い浮かんだらしめたものだ。テスト中もきっと頭の中で囁いてくれる。
同じ道筋をなぞれなくても、自分らしさ全開で進んだ解法がいつか別解のヒントになることもある。間違っていると切り捨てずに、検討して妥当だと思ったら、残していく意味もあるかも知れない。
世の中には自分より遥かに頭がいい人も勉強が出来る人も居る中で、僕がわざわざ書いて伝えることにどれほどの意味があるかは分からないけれど、僕自身はそれなりに勉強が好きだったし、得意だと思っていた。
中学、高校、大学と上がるにつれ、自分より賢い人はごまんと居るという現実を突きつけられながらも、ある種の自信も生まれた。
自分の勉強の仕方は、間違っていなかった、と。
勉強法に絶対的な解は無いと思っているけれど、上手くいく人達はなんとなく共通の原則の下に勉強を進めているように思う。
過去の勉強法は大学で一旦の完成を見たが、臨床の現場に出て四年、今再び、また勉強の仕方に戸惑っている日々を送っている。
過去の自分の成果を吐き出すことで、また新しい知恵がやってこないか、これはその新たなる試みの端緒である。
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