いつの間にか前回の投稿から一ヶ月超が経過していた。
怒涛の日々も些か落ち着きを取り戻したのとほぼ同時に、身の回りでは風の流れが変わりつつあるのも感じる今日この頃。
まもなく2021年も終わりを迎えようという時期になっていて、はてさて今年の頭に掲げたスローガンはなんだったかと、早めの振り返りを始めてみる。
今年のスローガンは、「ダウンヒルはじめます」だった。
新時代の到来の予兆とともに昨年を貫いたのは自分自身にとっての、「霊性の探求」としてひたすら人間とは何か、人生とは何か、仕事とは何か、健康とは、病とは、を考えることだったように思う。
それはある種浮世離れした足掻きとして周囲の目から映ったかもしれないし、現にその熱病めいた衝動が、自分の本業に向き合えないジレンマと相まってモヤモヤしたものを心に突きつけてもきていた。
一転して今年。
年明けのピロリ菌除菌から始まった、身体の声を聴く営み。それが菌食、発酵の世界へと自分を誘い、食を考え直すことが、農業への興味、原始的運動としてのランニングへの関心となり昨年よりも早いスピードで身が軽くなっていった。
ダイエットの言葉が原語で食事を指し示す通り、食を変えることで腸内環境が切り替わり、腸内環境が切り替わることで体重は容易にも減り出すものだという事を身をもって知った。
週一で始めたランニングでは、程よい疲労感から睡眠の質も向上し、身を削ぐ=禊ぐなのではないかと思うほどに身体が軽くなることに快適さを感じた。
今年の上半期、自分を変えたのは上記のような「足す」アプローチであった。
習慣を足す、行動範囲を広げる、知識を取り込む。
「足す」ことで豊かになる側面がそこには確かにあった。
一方、下半期になり、身の回りが忙しくなったり、失うものがあったり、時間的に諦めたり手放すものがあったりと、「引く」ことで見えてくるものにも気づくことが増えてきた。
休日を手放し、発信の頻度を削り、ヨガにも茶道にも通えなくなり、その代わり本業と今なすべきことに向き合う時間が増えたことで、慌ただしさの中に、「しずけさ」が生まれた。
その結果、自分の身体の活性を邪魔してしまうような環境や習慣を手放すことにも開眼した。
そしてそれは、かつて学生時代の自分が猛烈な熱量を持って追い求めた純粋な医療の求道への情熱から一段変わったとこにある、あの頃ほど純粋じゃないけれど、あの頃より洗練されている方向性を感じるきっかけにもなった。
清濁を超越した、一元に向かって突き進む道。
そのための方法として、「何か」が自分を猛烈に今勉強させようとしているのを感じる。
最近優れた職人に会う機会に複数回恵まれた。
会うたびに思う。
「確かな技術が説得力になり、その上に独創性が乗ってくる。」
個性を削ぎ落としているかのように見える、純粋な求道こそが個性に至る只一つの道なのかもしれない。
最近になりひとときの解禁ムードの中、少しずつ飲みに行ったりを再開している。
そもそも弱いので、3杯位で限界に達する。でも、酔うことが目的ではなかったりするのだ。
国試の受験生時代、決して褒められた話ではないが勉強終わりには1人バーで数杯飲んでから帰る、ということを繰り返していた時期があった。
酷使して焼き切れそうな脳を緩める、という名目上自分に許したその時間は、今となってみれば対話の時間であった。
バーテンダーとの何気ない会話もそうだが、店内の喧騒をよそに、酒を通して自分と向き合う時間。
そこには、正真正銘の「独り」の時間があった。
酒瓶たちの並ぶバーカウンターは、どこか本棚に似ている、と思う。
それぞれの酒瓶が、凛とした表情でそこに佇んでいる姿に、頼もしさすら感じる。
そんなことを考えながら、ゆっくりと頭のネジを緩めていく行為が、時々の癒しになっていた。
今だから言える話かもしれないが、国試前日緊張と「いよいよ、やってやるぞ」との昂りで3時間しか眠れなかった自分が、二日間を乗り切れたのは国試1日目の終わりに学年副担任の先生の「今日は一杯ぐらいなら、飲んでもええよ」の言葉に背中を押され、一人こっそりと、何度も通い詰めた神保町の馴染みのバーに足を運んだからだったりする。
一杯のハイボールで平常心を取り戻し、その日はぐっすりと眠った。
酒が飲めるようになるまでの昔、自分にとって「独り」となる時間は散歩だったり、学校からの帰り道だったり、歩くことと直結していた。
また、銭湯に入ることも「独り」になれる大切な時間だ。
温かい湯で全身を緩める。広い浴槽、高い天井、湯気が視界を包み、朧げな眼前と裏腹に自分の中にクリアな思考が広がる。
一人旅もそんな効果がある。
誰かに会いにいくと共に、独りになりにいく行程。
そんな孤独の時間が自分を整える絶好の機会になりうる。
前半の振り返りもそんな「独り」の時間で生まれた。独り様々である。
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