理性の戯れ

色々な場所で、「20代なのに、ものの考え方がしっかりしている」とか「20代でそういうことを考えるのは凄い」とお褒めいただく事が、たまにある。


ありがたいことだし、お世辞を加味しても嬉しいが、そんなたいそうな人間ではない。


まもなく20代も終わるので、この際なので考察してみる。


褒められポイントとしては、若い頃から思考が内に向くのは珍しい、ということらしい。


我が家は恐らく、父親の哲学的な傾向に幼児期から触れているから、妹弟含め3人とも割とこの傾向にあるが、世間はそうでは無いのかもしれない。他人のことはよくわからないが。


特別なわけではなく、人間の成長段階として頭脳を鍛え、理性を養っていくといずれその刃は必ず自分に向く傾向にある。


学習の基本は物事を段階に分け、分析し、習得することにある。そして得た知識や技術を実戦投入し、結果から反省する。上手くいくこともあれば、その一方で失敗を生み出す原因となった、自分の何気ない思考の癖や行動の根拠をたぐり寄せていくと、自分の内面にあるいくつもの根源、わだかまりや弱さに到達する。すなわち「出来ない自分」に向き合う瞬間がどんどん現れてくる。これが自己の内面を掘り下げる入り口になる。


この流れは自然なことだと思う。


人との会話で「今かっこつけたな自分」とか、「嘘ついて盛っちゃったよ」とか、「偉そうなこと言ってしまったな」とか、人と会った帰り道は一人反省会のようなものだ。


内面の欺瞞は顔に出る、言動に出る。隠し通せるほど器用じゃないし、嘘をつくのも下手である。他人はいつだって自分の薄い鍍金を剥がして本質を見抜いてくる、という恐怖が常にあって、自分が誰よりも自分の皮を剥ぐのが上手くないと後々痛い目を見るのは容易に想像できる。

バレてないと思って生きるほど屈辱的なことはない。


誰よりも自分に対してシビアになったら、人は自分の内側を素直に探索できる。人間関係に於いて生じる軋轢の原因も、自分の劣等感やコンプレックスだったりする。手がかりを探るには潜るしかない。隠し続けたらその歪みはいつしか現実を襲い始める。


それこそがワタナベアニさんが『ロバート・ツルッパゲとの対話』という著書で突きつけた「子どもの目を取り戻す」という事だと勝手に解釈した。裸の王様が裸だと自分自身に告げる勇気を取り戻せと。


一方で、理性による原因追及は哲学への入り口にはなるが、真理探究の道では不要になってくることも最近は実感するようになった。


分析と思考だけでは、分析と思考自体を成り立たせている論理事象の前段階にはたどり着けない。


つまり、デカルトが喝破した『我思う、故に我あり』の我ベースで考え続けていても、我という存在を成立させている「何か」を明らかにすることは出来ない。

自分の背中を自分で見ることが出来ないのと同じ。


コンピューターは自分を作動させる根本のプログラムを書き換えられないように。


この辺は中沢新一の『レンマ学』に詳しい。


そういう部分を探求してきたのがヨガや仏教である。


理性は自身の内面を切り分けて、根源を辿っていく上ではある程度有用だが、現実に何かを生み出し、行動に移す、燃料は感性だったり、信念だったりする。そうした理由のない熱量が自分を奔らせていく。


でも、自分はとかく飽き性だから、何かを探求していても自分なりの答えとしてそれぞれのテーマを一言に集約できたら興味は別に向く。合氣道も、自分なりの根本を見つけたら辞めてしまった。


現行の医療制度やそれを巡る哲学も、自分なりに考え尽くしたらどうでも良くなった。


知識欲に駆られて行動をドライブすることも、責任感など理性の見地から「やらなきゃ」精神で自分に鞭打つことも、辞めつつある。


飽きたら手放す。それが卒業のサインなのではないかと思う。


少し前まで自分を駆り立てていた真理への欲求も、最近は熱が冷めてきた。じきに不要になりそうだ。


考えて動く、には限界があるのだ。


食っていくために知識を、技術を、と恐怖にドライブされて頑張る時代は自分の中ではもう終わった。


恐怖や危機感を原動力にしても、ろくな結果にならない。


「たったひとつのもの」に向かって今日も楽しく探求を続ける。




松浦信孝の読書帳

本を読んで考えたことを中心に好き勝手書いてます。

0コメント

  • 1000 / 1000